(有)ライトデザイン

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筑波サーキットの目の前の小嶋英俊と井形マリのお店です。
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マリの小部屋 ( 20歳 〜 )



二十歳になった 10日後、レースデビューする。 そこからの お話し。






 
  [ 2025/4/21 ]

 

 この写真も いいですね〜  写真が 動いている様だ。

 堀ひろ子 も、角谷さん も、随分前に 亡くなったのに、声が聞こえて 来そう ・・

 人の死って 何だろう? ・・ 何だか 生 と 死 の境が 曖昧に感じる。

 こうやって、マリの アルバムを見ていると、決して 「生」 と 「死」 は 裏表 じゃない。
  少なくとも 「死」 は、「無」 ではない、と感じる。

 生も 死も、同じ 座標上にある 「有」 だと 感じて来る。 ・・ と、考えていたら ・・
  パッ! っと 頭に浮かんだ。 

 哲学で言う、「存在」 とか 「実存」 とかの言葉、あの意味は、さっぱり分からなかった。
  宇宙人の言葉としか 思えなかった。 しかし今、何だか そのシッポを 掴んだ様な気がした。

 「生」は、「存在」の ひとつの形態に 過ぎない。 という言葉の意味も、ぐっと近づいた気がする。

 参ったなぁ〜 ・・ どんどん 哲学的思考に 傾いて行って、どうにも 収拾がつかなくなってしまったので、
  今回は、これにて ・・ それにしても、堀ひろ子は 背も高いが、足が とんでもなく長いですね〜!
 








 
  [ 2025/4/14 ]


  

 この 2枚の写真の 対比も いいですね〜  ・・ サーキットで、こんな 笑顔の写真は 本当に珍しい ・・

 これらの写真は、全て 一人の人が 撮っているのだけど、その人の特集も やりたいのだが、
  お別れ会の時に、色々アルバムを ひっくり返しているうちに、資料が どっかに行ってしまって、
  探しているのだが、見つかったら 紹介しようと思ってる。



 ※ ちなみに、小沼加代子の話題を載せた事で、当時 一緒に走っていた人から、詳しい話を聞く事が出来た。
     当時、私は ヨーロッパに行っていて、この時代の事は よく分からなかったのだけれど、

   小沼加代子は、ノービスを 2年 経験しているらしいのだが、その理由は、何と!
     1年目で、すでに ジュニアに 昇格出来る ポイントを 獲得していたのだが、

   MFJが、女性だから 危ない、という事で、昇格を 見送ったのだそうだ。
     2年目は、もう ジュニアの実力だったので、「 いやぁ〜、メチャクチャ 速かったですよ〜」 と言っていた。

   現代じゃ 考えられないけど、女性ライダーの道を 切り開いた、堀ひろ子 と言い、
     前例の無い、女性ライダーの 対応に、困惑したであろう 主催者の 気持ちも分かるし、
     当の 女性ライダー達の、差別や 偏見に 向き合った、大変さ、精神力にも 脱帽しますね。










 
  [ 2025/4/10 ]

 







 

 2枚とも、いい写真だなぁ〜 ・・ モノクロ だからこそ、より 物語性を 感じる ・・

 外した タコメーター ・・ と言うより、恐らく カウルステーが、もげちゃったみたい ・・
  メーターの横に、バーの取れた ハンドルクランプが 転がってるし ・・

 散乱した 工具の中に 座り込んで、半泣き状態 ・・ 何だか 泣き声が 聞こえてきそう ・・










 
  [ 2025/4/3 ]

 

 最終コーナーの景色が 今と違うけど、筑波サーキットでしょうね。

 ゼッケン 26 小沼加代子。 フロントロー、セカンッドポジション かな? ・・ さすが ですね ・・
  
 この当時から PENTAX の スポンサーが付いてたんですね。
  左に立ってる人って、もしかしたら 高阪さん かな? ・・ 若いなぁ〜! 




 

 そして、ライバル心 メラメラの、マリの走り。  最終コーナーかな?










 
  [ 2025/3/27 ]

 


 


 

 ウムッ!  今回は ちゃんと ゴールした様だな ・・・   現在の鈴鹿は、ここは 3コーナー と呼ばれてる?







 


 

 宿命の ライバル、小沼加代子。

  その後、小沼加代子は、ジュニア、国際A級 へと、トントン拍子に昇格し、
  日本で最初の、女性国際A級ライダーとなる。  マリは、それに 1年 遅れて、国際A級に 昇格する。

 マリは、加代子を ライバル と 思っていたかも知れないが、加代子の方は、恐らく 眼中に無かったかも?
  根本的に、女性ライダーという 意識は無かった様に 思える。 あくまで 1人の ライダーだったんでしょうね。

 画像が悪くて 残念だが、小沼加代子は とても美人なのだ。 
  ただ、そもそも そういう見方をされる事が、嫌いだったんだと 思う。

 マリは、加代子の 速さに対しては、ずっと尊敬していた。










 
  [ 2025/3/8 ]

 菅生のレース結果は 書いてなかったけど  ・・ どうだったんだろう? ・・

 次は、全日本 第8戦 筑波 の様だ。



 


 

 「こうじ」 とは、飯田浩二 (字が違ってるかも?) さん の事。 私が社内チームで走っていた頃は、
  埼玉製作所の、明和レーシング だったけど、この頃は もう 朝研に行ってたのかな? ・・

 私が走っていた頃は、オールホンダ・オートバイ部の中で、すぐ上の先輩で、昨日も 筑波選手権で、
  ステーが折れてしまった ライダーの、溶接修理を、「悪いけど、頼むわ。」 と 電話があったばかりで、

 あまり 気にしていなかったけど、考えてみると、NRの時代から、HRC黄金時代の、全てのレーサーを、
  殆ど1人で、真っ直ぐ走るかどうか 分からない様な、誰も乗った事の無い、誕生したばかりの マシンを、

 テストを繰り返し、まともに走れる様にし、殆ど全てのマシンを、世界チャンピオン になるまで、
  育て上げて来たんだから ・・ 実は、とんでもない人なんですよね ・・



 

 一方、「マリオ」。 完走より 転倒の方が 多くないか?  でも、飯田さんに劣らぬ、攻撃的な走り ・・

 
 







 
 [ 2025/2/28 ]

 

 決勝は 雨だったんですねぇ〜 ・・

   私も 雨の菅生で、フロントが IN側の白線踏んで、思いっきり滑って、身体が殆ど落ち掛けたけど、
   何故か、立ち直った 思い出がある。




 

 2列目、予選5番手 ですね。  前には チームメイトの2人。 

 さあ! 押し掛けの 練習の成果が 出ますか!




 

 おぉ!  フロントロー 3番手の 森光と デッドヒートしてるじゃん!

 雨で ビビッてると 思いきや、行け行け ですねぇ〜。









 
  [ 2025/2/19 ]

 

 ピットロードで、最も苦手な 押し掛けの練習。  菅生は上り坂なので、明らかに女性には不利。
  
 実は、私は ここで 押し掛け地獄に合って、後々まで 角谷さんに、
  顔を見ると、「おい!押し掛け地獄!」 と 呼ばれていた。




 

 キリッ とした表情で ・・ いやいや、もう立派に 貫禄さえ 感じますねぇ〜 ・・




 
  








 
  [ 2025/2/11 ]

 さて、ノービス時代の続きを ・・

 

 菅生ですね。

 ヤマハの、スポーツランド菅生は、私の頃に出来たばっかりで、初めて開催された年のレースに、
  CB650 で出場したのだが、最も 思い出したくない、最悪のレースなので、レースの事は忘れるとして、

 最終コーナーの シケインを立ち上がって、メインスタンド前に登って来る時の、加速音が反響して、
  自分で走っていても、うっとりする程、いい音がするんですよね。

 当時、RSC の 隅谷守男さんの、お下がりの CB500を 650ccに拡大した、CB650に乗っていたのだけど、
  5速ミッションだった。 でも 実は 6速ミッション があった。 ところが、そのスペシャルミッションは、
  ギヤ抜けが酷くて、隅谷さんも使ってはいなかった。 そこで、放置してあった 6速ミッションを貰って、

 色々、改造して 使える様にしたのだ。 ミッションを改造するのは 極めて危険なので、良い子は
  マネしない様にしましょう。 若かったので、無謀にも改造してしまった。 結果は 成功だったから
  良かったものの、今考えると、ちょっと怖い。 勿論、ミッションのプロに聞きまくったんだけどね。

 5速と 6速では、ギヤの繋がりが 全く違って、実に気持ち良く走れる様になって、14000rpm 近く
  回して走っていた。 当然 タイムも 大幅アップ ・・ になるはずだが、全然 変わらなかった。
  まあ、ライダーの限界だったんでしょうね。 ライダーとしては 駄目駄目君だったけど、
  そういう メカニズムに関しては、夢中になって作っていた ・・ それが 現在に 繋がっているのだが。

 さて、自分の事など、どうでも良かった ・・



 

 女の子だろうと、自分の車両整備は 自分でやるのだ!  タイヤ交換は、最も大変だった様だ。
  確かに、コツだよ! とは言え、力は必要だからね。




 

  ・・ とか言って、結局 ちゃっかり、やって貰ってんじゃないか!  よろしくね! って、笑ってんじゃねえよ!
  携行缶に、Tレンを 橋渡しして、バランスを取る。  今じゃ、何て いい加減な、と思うだろうが、
  スタテックホイールバランサーを使うのと、殆ど遜色が無いくらいの正確さなのだ。

  






  
 
  [ 2025/1/27 ]

 

 なるほど ・・ 弟3戦 筑波は、雨で 転倒リタイヤ だったんですね。




.


 
 
 この時期の写真が 少なくて残念だけど、何と 第5戦 筑波で 優勝してるんですね! 凄いじゃん!
  それなのに、写真が これだけで、この左横にも 貼った跡があるけど、剥がれて 無いんですよね。

 ・・ いや、これは、ちょっと ・・ 生前に もっと 尊敬すべきだったかも ・・

 私は、2位は何回もあるけど、優勝経験は無いので ・・ 優勝したら 止められない、って言うけど、
  経験が無いから、簡単に 止められたのかもね ・・

 私は、さっさと止めたので、マリとは時代が違って、一緒に走って無いのだけど、一度だけ
  一緒のレースに出た事があるのだ。 1984年の鈴鹿8時間耐久レース。

 私は レースを止めて、もう7年くらい経ってたけど、皮ツナギを作って貰えるからと、誘われて出場した。
  当然、遊び気分で、全く練習もせず、公式練習からの ぶっつけ本番。 舐めてますよね〜 ・・

 最初は、自己ベストの 30秒落ちで、これはヤバイ!と、何とか予選では 自己ベストには 遠く及ばないが、
  真ん中辺りの ポジションを ゲット。 その 0.1秒落ち位の 隣に、マリが並んだ。

 例え お遊び、とは言え、男としての プライドがあったので、「ヤベェ〜、女に負けるところだったぜぇ〜!」
  って、言ってた様な気がする。 決勝は 我々は、早々とエンジントラブルでリタイヤ。 マリは立派に完走。

 この 0.1秒差で 私に負けた事を、マリは一生 悔しがっていた。 
  あの時 負けてたら、一生 尻に敷かれていたかも知れない ・・ 良かったぁ〜 ・・
 








 
  [ 2025/1/22 ]

 1978年 プロダクションレースを卒業して、1979年からは 本格的な ロードレーサー MTR125で、
  ノービス125ccクラスに 参戦するが、アルバムには 色々な年代が 混在していて、

 しかも 私は、確か 1978年の6月? に本田技研を退社して、森脇さんの工場の隣にある、
  若松鉄工で アルバイトをして、1979年 始めには 渡欧したので、78年〜81年までの
  日本の状況は。全く分からないので、想像で 話を進めて行くしかない。



 





 

 写真の日付が、79年2月になってるので、ノービス125ccクラスの デビュー前の 練習での 一コマでしょうね。

 プロダクションの CB125、4サイクルエンジンから、2サイクルに変わったので、整備は簡単になって、
  嬉しかった、と言っていた。 マリは、4サイクルと 2サイクルの違いは、よく分かってないでしょう。

 オートバイの メカニズムには、全く興味が無いので、構造がシンプルで、整備が簡単な方がいい。
  ただ 当時は、ワークスライダー以外は 全て、ライダー自身が 車体から エンジンまでの
  整備をしなければならず、それは女性でも 例外ではなく、本当に嫌だったらしい。




 

 上の写真の隣に貼ってあったけど、日付が 78年4月に なってるので、ごっちゃになってますね。
  
 神谷さんの跨ってるバイクも、マリのバイクじゃないでしょう。 神谷さん 若いですね〜 ・・










 
  [ 2025/1/6 ]

              





 

  1978年、シーズン終了後、プロダクションレースを卒業し、いよいよ本格的な レーシングマシンの
  MT125 で走り始める。 荒川のテストコースは 直線だけなので、とりあえず 体験走行って感じかな?

 どういう時間帯で走れたのか 知らないけど、皆の注目を浴びてますね。



 
 

 体験走行とは言え、しっかり伏せてますね。  もう、バクに乗ると 伏せる、って 、なってしまうんでしょうね。
  でも、何で 直線コースで 転ぶの? ・・




 

 ははぁ〜、多分 Uターン する時に 転んだんだな?  レーサーは、ビックリするほど ハンドル切れないもんね。
  ここから、本格的に レースの世界に入って行く事になる訳だ。

 何でも、毎朝晩、研究所の近くを ランニングしたり、大嫌いな トレーニングに励んでいたらしい。
  ロッキーの世界の様な、朝日が昇る様な、素晴らしい 未来を 夢見ていたらしい。
  若いって、いいですね〜 ・・・  









 
  [ 2024/12/31 ]

 

 これも 雑誌の取材の写真でしょうね。 with XL250S





 

 おっ! この写真 いいじゃん!  これも雑誌の取材の写真だと思うけど。
  DT-1 の、マイナーモデルチェンジした 次のモデルの、DT250 って言うのかな?

 サイドスタンドを 立ててるとは言え、当時としては 車高の高いモデルだと思ったけど、
  ちゃんと足着いてるから、こんなものだったんでしょうね。

 ライダーとバイクの スケール感が、ちょうどいい。 エンジンと タイヤが、しっかり主張していて、
  いかにも 野山を駆け巡る 野性的な雰囲気を 醸し出しているが、それでは 泥臭くなるところを、

 輝く チェリアーニタイプの フロントフォークから、絶妙なサイズ感の お洒落なタンク。
  細く絞った前方から、後ろにかけて大きく広がるシート、それに繋がる 幅広のリヤフェンダー。

 実に秀逸なデザインだ。  小さめな マリが跨ると、より、バイクのデザインの良さが 浮き出ている。
  いいじゃん! この写真 ・・ 我が女房だったけど、ちょっと 惚れ直しちゃった ・・









 
  [ 2024/12/25 ]

 

 おぉ〜! キリッ とした表情。  これは普通じゃないから、多分 雑誌の取材用とかじゃないかな?
  朝研の前で、CB125JX に跨る、の図。 いかにも ホンダ技術研究所に通い、社内チームの
  ブルーヘルメットに所属し、ロードレースに参戦する女性! って イメージの図。

 取材用の顔を作るのは 得意だ、と 豪語していたが、顔はいいから、性格を何とかして欲しいものだ ・・・
  








 
  [ 2024/12/19 ]

 

 その 初めて開催された 女性だけのレース 「パウダー・パフ」 で、マリは 優勝した。

 しかし、マリは 口癖の様に 言っていた。 このレースは、堀ひろ子が 勝ちを譲った ・・ と
  堀ひろ子は、自ら主催するレースで、優勝する訳には 行かなかっただろう ・・ と
   まともに 勝負をしてくれなかった ・・ と

 堀ひろ子に対しては、憧れ と 尊敬の念を持っていたが、この時、自分とは違う世界の人だと 感じたらしい。
  レースの世界で 生きて行く人ではない。 男世界の中で 這い上がって行く為には、
   どんな汚い手を使っても 勝ちたい、という気持ちを持っている 自分とは違う、と思ったらしい。

 実は このレースには、出場したら、ぶっちぎりで優勝していたはずの 女性ライダーが 出ていない。
  女性で 初の 国際A級ライダーになった、小沼 加代子だ。

 勿論、堀ひろ子は 小沼加代子にも、声を掛けたはずだが、男の中で トップ争いが出来る 加代子としては、
  女のレースなど、全く 眼中には無かったのだろう。 そして マリも、このレースなど 眼中に無かったらしい。

 しかし、ここが マリの、したたかな ところで、このレースで名前を売る事で、将来の道を有利に歩めるだろうと、
  企んで 出場したらしい。  ところが 予想外に 堀ひろ子の 実力が高かった、という事だ。




        

 この パウダー・パフは、あくまで エキジビジョンレースなので、優勝しても賞は無く、参加賞としての
  ブロンズ像 しかない。 マリは 今まで貰ったはずの、トロフィーや盾などを 全く残していない。

 しかし この、パウダー・パフの ブロンズ像だけは、死ぬまで 自分の目の届くところに 置いていた。
  それは、ひとえに、堀ひろ子 に対する 畏敬の念 からだと思う。

 堀ひろ子は、女性2人で CB750で 世界一周したり、サイドカーのパッセンジャーを務めたりして、
  女性でも、男性と同じ様に、2輪、そしてレースの世界で、生きて行ける事を、地道に証明して見せ、

 1976年 当時、レースに出場出来るのは、「18歳以上の男子」 となっていた、
  MFJの 規定の改正を働き掛け、レギュレーションの変更に 漕ぎ着けた。
   見事に 男の壁を破った、正に 女性ライダーの パイオニアだ。

 マリは、自分がレースの世界に入って行けたのは、堀ひろ子が その道を 切り開いてくれたからで、
  一生、畏敬の念を抱いていたのだ。  でも、殆ど 話した事が無いんだよね、と 言っていた。

 そして、3位になった 小川ヨーコも、このレースで、マリとの 実力の差を感じ、レースを諦め、
  ジャーナリスト への道を歩んだ、と書いてあったが、堀ひろ子、小沼加代子、小川ヨーコ、
   そして マリと、さすがに 女性ライダーの 黎明期、優秀な人が 揃ってたんですね〜 ・・・
   







 
   [ 2024/12/16 ]

 






 

 やはり 被写体が 女性だからか? 誰かが写真を撮ってるんだろうが、恐らく 殆どの写真は、
  1人の人物が撮っているはず ・・ いずれ、それが誰かが 分かります ・・







 
  [ 2024/12/11 ]

 そして、1978年 9月、女性ライダーの パイオニア 「堀 ひろ子」 が 主催した、
  女性だけのレース 「パウダー・パフ」 が、全日本GP で併催された。


                   


 

  ポールポジションは、主催した本人 「堀 ひろ子」、 セカンドポジションが マリ、サードが 小川ヨーコ?
   堀 ひろ子、カッコイイですねぇ〜! 子供みたいな マリ と比べると、お姉様 って感じ ・・




 

 ル・マン式スタート だったんですね。 スタート悪くない、でも 堀 ひろ子は すでに 跨ってるかな?




 

 マシンは、125cc 2気筒の、CB125T の、ワンメイクですね。
  このレースは、名目は エキジビジョンレースで、ショーとして、鈴鹿サーキットの 東コースで開催されたが、
   実際は ちゃんとしたレースだった。

 このレースは、主催した 堀ひろ子が、長年掛けて 地道に活動し、やっと辿り着いた、念願のレースだった。









 
  [ 2024/12/7 ]

 

 珍しく、仕事の写真。  マリは、和光研究所に入社し、一般職で庶務の仕事をしていたらしい。
  普通に事務仕事は出来た様だが、仕事の話は聞いた事が無く、まあ、仕事には興味は無かった様だ。

 何でも、何かを発注した際、間違えて 一桁 多く発注してしまい、大騒ぎになったらしいが、
  特に 怒られる事も無く、おとがめ無しだったらしい。 しかし、程なく 東研究所に転勤になったらしい。

 東研究所は、ホンダの汎用エンジン、耕運機、発電機などの 研究所で、それなりに面白いとは思うが、
  バイクや車好きで 入社した社員としては、行きたくない研究所ではあるだろう。

 マリとしては、左遷されたのは認識した様だが、仕事は何でも良かったので、何とも思わなかったみたい?

 小型の耕運機の試験をしている 振りをしているところですかね?



 

 女の子でも、簡単に持てちゃいまぁ〜す!  って、宣伝にでも使ったのかな?  
  手が震えてる様にも 見えるんですが? ・・

 ここは、どこか分からないけど、耕運機や草刈機のテストは、荒川のテストコースの近くにあったとか?
  更に 本格的な 草刈機のテストは、朝霞自衛隊の敷地内に、草刈をする、という条件で、
  テスト場として、借りていた 場所があったらしい。

 髪が 爆発してますねぇ〜 ・・

 






 
  [ 2024/12/3 ]

   そんな 奮闘 努力 の 甲斐も 無く〜 ♪ ・・・ じゃなくて ・・・ 奮闘 努力 の 甲斐 あって



  

     




 

      

  2位になったんですね〜 ・・ 良かったですね〜 ・・ 何か みんな 嬉しそうな顔 してますね〜

  それにしても、表彰台が 汚い! ・・ 思いっきり ローカル!って感じ。



 

 何か 一杯 貰ってますね ・・ 副賞なのかな? ・・ レース終了後の 表彰式は 外でやってたのかな?
         







 
  [ 2024/12/1 ]

   

 速い人の走りを、しっかり見て 勉強しなくちゃ!    気付いた事は、しっかり メモして 勉強しなくちゃ!










 
 [ 2024/11/27 ]

 

 筑波のレース前 と思われる。 ちょうど 2人の女性が並んでいる写真。 向こう側は、小川 (富樫) ヨーコ。





      

 

 押し掛けなので、いつも スタートは ビリ だったらしい。 ここから 一生懸命 追い上げるぞ! って感じ ・・



 

 結構 速そうに見えますよね。  このレースの結果は 分からないけど、悪くない、悪くない。









 
   [ 2024/11/23 ]

  さて、そろそろ 話を 戻しましょう。

 お別れ会では、本来 喪に服して 悲しみに浸るところが、数十年ぶりの再会で、マリ そっちのけで 大騒ぎ。
 
  不謹慎 極まりなし。 

 帰って、「いやぁ〜、滅茶苦茶 楽しかったよ。」 と 報告したら、 「あっ、そう ・・良かったね ・・」
  と、いつもの 素っ気ない返事。
   そう、いつも そうやって、まるで興味無し、と 聞いてない振りをして、しっかり聞いてんだよね。

 そんな、皆との出会いも、全て マリが作ってくれたもの。
  さあ! 鼻の下も 充分 伸びたし、襟を正して 行きましょう!

 88年、プロダクションレースで、レースデビューして、アルバムには 日付が 書いてないものも多く、
  レースの順序は 不明だが、これは 鈴鹿サーキットでの、連続写真。


      

 

 ヘアピンの進入。 No.48 が マリ ですね。 何だか 皆、妙に インが甘いですね?
  カウル付きの レーサーみたいのも 一緒に走ってるけど? ・・




 

 綺麗に 3台 並んで 立ち上がって行きます。  もう、転ぶ場面は 無い様に思うけどな? ・・




 

 ありゃぁ〜! アウトに はらみ過ぎて、縁石にに 乗り上げて転んでんのね ・・ だったら もっと インに付けよ!

 後に、同時代に マリと一緒に プロダクションレースに出ていた人に聞いたら、プロダクションマシンは、
  バンク角が、とても浅く、攻めると すぐに接地してしまうので、いかに バンクさせないで 速く走るかの勝負で、
 それなりに、とても難しい 独特の走り方が必要らしく、単に 元気がいい奴が速い訳ではないらしい。

 






 
  [ 2024/11/13 ]

 

 デビュー戦の 決勝結果は分からないが、翌月 同じ 筑波サーキットでの練習、スポーツ走行。
  他のライダーに比べて、しっかり 伏せようと、真面目に走ってますね〜。

 今と違って、この時代は、馬力の少ない 非力な マシンで、いかに コーナリングスピードを 上げて走るか が重要で、
  マリも、先輩から、例え コーナーで 怖くても、ひたすら 前面投影面積を小さくする為、伏せろ!
  つま先さえ 出すな! と、教えられていたと 思う。

 何だか、後方のライダーが、真面目に走ってない様に 見えてしまうけど、多分 一生懸命 走ってたと思うよ。




 

 おぉ〜! いいじゃん ・・ でも、これ以上 伏せると、男性と 女性の 骨格の違いから、いわゆる 女の子乗りになってしまう。
  これは、どうしようもない事なんだけど ・・ 果たして、それが 速さに影響するか どうかは、疑問?









 
  [ 2024/11/11 ]

    

 いよいよ、レースデビュー!  78年3月26日  筑波 T.T レース




 

 いつから 始まったのかな? 灯火類や スタンド等を 取り外しただけの、ストック状態の車両の、入門クラス。
  
 こうやって見ると、2サイクル、4サイクル、単気筒、2気筒、各メーカー、結構 色々なバイクが 集まってたんですね。
  No.14 の、黄色い CB125JX が、マリですね。




 

 ここ、何列目? でも、前に人が居るから、もしかしたら フロントロー? ・・ だとしたら、予選 4番手?
  まあ でも、押し掛けだから、いつも スタートは ビリ だったらしいので、決勝は どうだったのかな?
 残念ながら、写真は これだけ。

 全日本と 併催だったのかな? ・・ でしょうね。 今の地方選より、遥かに観客が多い。
  最終コーナー側も、小高い丘になって、観客席だったんですね?  筑波は 殆ど 記憶が無いので ・・・

 


 
 

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